人を追い込むのも、人を救うのも、人である

いまではそんなこともなくなったけれど、私は新人の頃、遅刻魔だった。月に何回かは遅刻していた。新人プログラマとして入社したのはよいが、プログラミングの経験がまったくなかった。自分で勉強するしかない。帰って本を読んだり、コードを組んだりして勉強する。

しかし、毎日、深夜残業で終電で帰っていると、帰ってから勉強すると、どうしても遅くなってしまう、というより朝方になってしまう。そうすると起きれない。いま考えるとなんてバカなんだろうと思うけれど、それなりに一生懸命だったのだ。入社してすぐに大阪から東京に転勤して、まだ一ヶ月も経っていないくらいの頃だった。ある日、目が覚めたら時計が10時を指していた。こういうときは、とっさには何が起こったかわからないものだ。「きょうは日曜だったっけ?」みたいなことも考える。しかし、そんなわけはない。だんだん事実がつかめてくる。豪快な朝寝坊である。しかも、ついこの間、遅刻したところだ。入社一ヶ月で二回目の遅刻である。

携帯には16件もの着信が入っている。その頃、会社が東京駅の近くにあったので、会社に行かずにそのまま新幹線に乗って大阪の実家に帰ろうかななどと考えたりもした。とんでもなくダメなやつである。しかし、そうもいかないので、まずは会社に電話しないといけない。

いやだなぁと思いながら電話をすると、先輩が電話に出た。こっぴどく叱られるだろうなぁと覚悟した。何しろ着信16件である。相当怒っているに違いない。

しかし、そのとき、電話から意外な声が聞こえてきた。

「芝本? おまえー、どーしてーん。心配しとったんやぞー」

拍子抜けするくらい優しい声だった。本当に心配してくれていたのがわかった。この声を聞いた時の安堵感はいまでも忘れられない。さっきまでの「大阪帰ろかな」と思っていた気持ちはどこかに飛んでいってしまった。

「すいません、豪快に寝坊しました」と答えると、「そか、そか。とりあえず無事でよかった。はよこい。気をつけてこい」と言ってくれた。

急いで会社に向かって、ついた瞬間、「すいませんでした!」と大きな声で謝った。上司には叱られたけど、電話に出た先輩は「気をつけろよー。ま、そんなこともあるわな」と笑ってくれた。

このとき、肝に銘じたことがある。それは「先輩や上司になったとき、自分が悪いと思っている相手に、追い打ちをかけない」ということだ。こういうとき、悪いことをしたといちばんわかっているのは、他の誰でもない、本人だ。悪いと自覚している人間をさらに叱責しても、よいことは何もない。萎縮させるか、反発させるだけだ。

追い打ちをかけるより、もっと大切なことは、自分で自分を責めている人間を救ってやることなのだ。自分で自分を責めている人間を、どうしてさらに他の人間が責める必要があるだかろうか。

叱らないといけないのは、自分が悪いことをしたということを本人が自覚していないときなのだ。十分にわかっている人間を追い込むのは愛情でもなんでもない。それは暴力だ。

私が寝坊したとき、もし他の人が電話に出ていれば、もしかしたら今の私はいないかもしれない。私はその先輩に救われたのだ。

人の上に立つ人間は、自分のひと言の重みを知らなければならない。そのひと言が人を追い込みもし、救いもするのだ。人を責めることはたやすい。しかし、人を救ってやれる人間は少ない。もし、自分のひと言が人を救う可能性があるなら、一人でも多くの人を救う人間であろうとするところに、人の尊さがあるのではなかろうか。

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