ノマドの違和感

「ノマドワーキング」が注目されている。会社という場所にとらわれず、働く場所や時間を自由に選択し、生活を豊かに過ごす働き方という意味でつかわれている。たしかに、とても魅力的に響く。毎朝、満員電車に揺られて会社に向かい、残業で遅くまで働き、土日は休日出勤し、帰れば疲れ果てて寝るだけ。そんな生活をしていれば、「場所と時間にとらわれない」という自由な響きにあこがれるのも無理はない。

しかし、そんな魅力的な響きとは裏腹に、「ノマド」には前提がある。それは「自律」と「能力」と「協働」だ。

場所と時間にとらわれないということは、言い換えれば「誰も強制してくれない」ということだ。会社の中で、自律的に働くことができない人が、なんの制約もないなかで生産性を上げられるかは疑問だ。

とらわれないで生きるには、「能力」がいる。労働力ではなく、能力だ。とらわれないということは、労働力としてはあてにならないということになる。会社が決まった時間に働くことを求め、同じ場所に集まることを求めるのは、労働力を欲しているからだ。労働力には「そこにいること」「時間で働くこと」が前提となるからだ。

さらに、会社という組織の利点は「協働」にある。一人ではできないことを、複数の人間が集まり役割分担をすることで効率化する。あまり働かないのに給料がもらう実質的「給料泥棒」が存在できるのは、この効率性によってだ。

この三つの前提がなければ「ノマド」として生きていくことはかなわない。

よく考えてみれば、この三つの前提は「働く」ということそのものだということができる。自ら考え、自らを判断し、自らを律する。そして、人が社会が求めるモノやサービス(すなわち「能力」)を提供することで対価を得る。一人でできることは限られている。だから、複数人が協力しあって、よりよい価値を生み出す工夫をする。ノマドでなくても、この3つの前提は、「働く」ということの意味なのだ。

「時間と場所にとらわれない」生き方は、会社にいればできないというものではない。会社にいても、先の「自律」「能力」「協働」の前提を持っているのであれば、とらわれない生き方は可能だ。時間を自由に使いたければ、有給をとればいい。周りの顔色を窺って休めないというのであれば、それはその人の意識の問題だ。要は、前提を持っているかどうかと、意識の問題だ。「しばられている」と感じていれば、いくら時間や場所が自由であっても、それは「ノマド」とは言えない。時間や場所に制約があっても、「つねに選択は自由だ」という考え方ができれば、十分「ノマド」である。

「ノマド」というカタチにとらわれていれば、それすでに「ノマド」ではない。いまさら「ノマド」などと言わなくても、全国を飛び回る営業は、時間も場所も関係なく働いている。それは、ひっきりなしにかかってくる電話や、落ち着かないホテル住まいということでもある。「ノマド」などというかっこいい響きとは程遠いものだ。そこには、「働く」ということの喜びがなければ、続けられるものではない。

「ノマド」という言葉が流行る背景には「長い時間働くのは人間らしい生活ではない」「束縛されて生きるのはよくない」という思いが見え隠れする。いやなものから逃げるための「ノマド」なら、そんな流行はすぐにすたれるだろう。安易にバズワードに飛びついて、カタチにとらわれるのではなく、「働く」ことの意味を見直すための機会としたい。

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